定林寺の由来
定林寺は曹洞宗の寺院です。
本山は福井県の大本山永平寺と横浜市の大本山總持寺です。
定林寺の歴史
定林寺は、今から約750年前、現在の筑西市稲野辺付近にあり、当時は、真言宗般若山定林寺と称しておりました。
御本尊は釈迦三尊で、中央にお釈迦様、左右に文殊菩薩様と普賢菩薩様をお祀りしています。
文明十年(1478)下館初代城主になられた水谷勝氏(みずのやかつうじ)公は、下館に初めて城を築かれ、文明十三年(1481)には結城市乗國寺五世、良室栄忻(りょうしつえいきん)大和尚を迎え開山に招請しました。
この時、当山を真言宗から曹洞宗に改宗し、山号も玉叟山(ぎょくそうざん)と改め、玉叟山定林寺と改められました。寺号の謂れは、開基家の水谷勝氏公の法名、「定林寺殿玉叟了圓大居士」に由来すると言われます。
故に当山では、水谷勝氏公を開基とし、良室榮忻(りょうしつえいきん)大和尚を開山としてお祀りしております。
以来、当山は、水谷家八代勝隆公までの161年間、水谷家の菩提寺として庇護を受け栄えました。
新本堂の建立
明治13年の火災で伽藍は焼失しましたが、歴代の住職復興に努め旧家を移築して旧本堂としました。
そして、昭和55年、当山が曹洞宗に改宗して開闢500年を迎えるに当たり、当山39世再中興大元昌隆大和尚が長年の念願であった新本堂の建設を誓願しました。寺檀一つになり昭和57年、新本堂が完成し、翌年3月、落慶の式典が行なわれました。
また、昭和3年には、県道開通に伴い山門を本堂の南側より東側の現在の場所に移築しました。また、平成25年には、本堂南側に新しく山門が建立されました。
2つの指定文化財
当山の寺宝であります銅鐘は、天平式の梵鐘で室町時代に鋳造されました名鐘です。永禄十年(1567)当山二世中興喚之鈍応(かんしどんのう)大和尚の時、水谷家七代勝俊公が寄進された事が梵鐘の銘に刻まれています。
この梵鐘は、昭和38年8月に茨城県指定文化財に指定されました。貴重な工芸品であるので、寺宝の梵鐘は、本堂内に安置保存しています。現在の鍾楼堂の梵鐘は、平成16年、檀信徒の浄財で新たに鋳造した梵鐘をつるしています。
また、もう一つの寺宝であります板碑は、昭和39年7月に茨城県指定文化財に指定されました。鍾楼堂前に置かれています。板碑の傍らに建てられた案内板の石塔に板碑の説明が刻まれています。
茨城県指定文化財 昭和39年指定 鎌倉時代ノ制作ト推定サレ 秩父産緑泥岩ノ青石塔婆ニシテ 中央に釈迦三尊ヲアラワシタ梵字アリ 定林寺檀 羽田鉄治氏昭和三十八年寄進セルモノデアリマス。
最近の研究による見解
最近の研究で当山の板碑は、釈迦三尊ではなく、阿弥陀三尊をあらわした梵字と言う見解や薬師三尊が釈迦、阿弥陀を脇侍とする組み合わせを、この板碑は薬師如来を大日如来に置き換えた異形の大日三尊(金剛界大日如来を本尊として釈迦如来と阿弥陀如来を脇侍)とする見解もあり今後の研究課題と言えます。
水谷公の墓所
現在、水谷公の墓所は、当山墓地の一番奥の突き当りにあります。墓所中央の角碑には、水谷家歴代の法名と忌日が刻まれております。碑面上段右から初代勝氏公・二代勝国公・三代勝之公・四代勝吉公、下段右から五代治持公・六代政村公・七代勝俊公・八代勝隆公の法名と忌日が刻まれております。
水谷家は、八代勝隆公の時、寛永16年(1639)3月、備中成羽(なりわ)へ移封となり、同19年(1642)7月備中松山城主(岡山県高梁市)になられました。
鐘銘偈日
無常願力善修功 移得霊山大広鐘 朝破却衆生業障 夕開発諸仏明聡
一衝動処一花叢 五蘊響時五葉風 永夜楼頭皆水月 見聞覚智悉圓通
乗国四世信及豚老衲作之
常州伊佐群奥崎郷下館村 玉叟山定林禅寺之楼鐘也 現住喚之鈍応比丘置之
大檀那 水谷兵部大輔藤原勝俊 干時永禄十季 三月八日
釣鎖万拳庵主秀泉 寄附之 古嶋隼人丞助信 彫刻之
桃英貞見禅門 助縁五百文